Bギャラリーでは4年ぶり5回目となる写真家、大和田良の写真展を開催します。2部構成で開催される本展では、広島にある植物屋<叢(くさむら)>の植物を2017年に湿板写真で撮影したシリーズ『叢本草』と、2014年〜2016年にかけて関東近郊のライブハウスを撮影したシリーズ『LIVE HOUSE, TOKYO』の展示、販売をします。
『LIVE HOUSE, TOKYO』は、彼が青春時代を過ごしてきた90年代〜00年代に数々の歴史を残してきたライブハウスから、時代の流れによって新しく登場してきたライブハウスまでを記録した作品です。

ロラン・バルトの言葉を借りれば「それは、かつて、あった」であり、ジャック・デリダで言えば時間経過の「永久的延期」だ。特に前者は写真を見る側からの、後者は撮る側からの論理に紐づけられるだろう。
家族のアルバムを開けば自分よりも若い両親の姿を発見し、カメラを持てば自分の子供の「今」を留めることができる。このことは、時の流れとはあまり関係の無さそうな静物写真や風景写真においても、写真のリアリティという点で非常に重要な要素だと言えるだろう。過去の一点に属しているという事実は、撮影された写真におけるほとんど唯一の共通的な真実でもある。どんなに普遍的な眺めであっても、過去に確実に存在した一瞬であるという事実があることで、写真はリアリティという価値を内包できるのではないだろうか。それは写真というメディアが発する最大のメッセージでもあるかもしれない。
骨董屋で古写真を眺めるとき、そこには生き生きとした肖像やある土地の風習、文化を見ることができる。時折、それらが遠い過去のものであろうことは理解しつつ、生きた人間の存在と時間が確かに感じられ、心のなかのなにかが揺さぶられることがある。時間や空間を一気に圧縮し、観るものを突き刺す、写真のこのような機能は、作者不詳の古写真などから強く感じられることがあるだろう。そこには、時を留める写真の本質が垣間見られるようである。
僕がライブハウスという被写体に対峙したときに感じたものは、まさにこういった時間の蓄積、あるいは地層のようなものだった。
階段や、扉、ステージ、廊下。至るところに潜むのは数十年前の自分の残像であり、友人の、そしてそこですれ違った人たちの気配である。さらに言えば、その日の夜に訪れるであろう演者や客の予感までもが含まれる。
そして、この本に収録されたライブハウスの風景は、この作品を観る人それぞれの時間の一点であるとも言えるのではないだろうか。

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